10月の「今日の幕末」 幕末日誌文久2 開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久2年閏8月12日(1862.10.5)
◇清河八郎、水戸藩激派住谷寅之助・山口徳之進らと尊攘を語る

■清河八郎と水戸藩
文久2年閏8月12日、清河八郎と同志の村上俊五郎は水戸藩「尊攘激派」の住谷寅之助・下野隼次郎・山口徳之進・宮本辰之助と会い、終日飲んで、寺田屋事件・京摂の事情を説き、尊攘について語りました。

参考:「潜中紀事」

<ヒロ>
寺田屋事件後、清河は水戸浪士を引き出して横浜攘夷を実現するための東下を決めて6月1日に京都を出立しました(こちら)。8月24日に江戸に着き、山岡鉄舟・松岡万ら虎尾の会同志と会うと、27日には江戸を出立し、閏8月9日に水戸入りをして、11日に住谷を訪れて初めて会っていました。住谷の紹介で、下野らと会うことになったようです。

この後、清河は計画を横浜攘夷から大赦運動にシフトし、同月20日に水戸を発ちますが、10月11日には再び水戸に戻り、住谷らと往復し、12月に自身が大赦されるまで水戸に滞在した模様です。清河八郎と水戸激派はつながりが深いんですヨ。そして、実は清河と面識のある水戸藩激派は芹沢鴨とも接点があったりします。わたしは清河の提案した浪士組は水戸激派(さらに長州藩激派)との連携があったと憶測しています。覚書に整理したいと思っていますが、とりあえず、清河の会った4人はどんな人かというと・・・↓(「いろはに幕末水戸藩」「水戸藩かけあし事件簿」もどうぞ)。

住谷寅之助(当時45歳)は藩士(100石)で、斉昭雪冤運動に関わり、また原市之進らとともに老中安藤信正襲撃(「開国開城」「坂下門外の変」)計画に関った水戸「尊攘激派」です。このとき、長州藩士周布政之助や桂小五郎に書簡を送り、水長盟約に基づいて行動を起すよう求めています(長州藩の事情で長州藩の参加は成りませんでした)。潜伏中の清河に頼まれて松平春嶽への上書を江戸の間崎哲馬に渡しています。文久3年の藩主上洛に先発して上京し、尊攘急進派の翠紅館会議にも参加(こちら)。藩主東帰後も京都警衛指揮役として本国寺に留まりました(在京「水戸激派」=本国寺党の中心人物の一人です)。

宮本辰之助(当時31歳)は住谷の弟で、『史談会速記録』によれば、文久3年1月下旬〜2月頃、水戸にいた草野剛三に対して<幣藩の中納言殿(=水戸藩主徳川慶篤)おいても上洛をされる訳である。水戸の獄に下っていた者は悉く大赦の令によって出た。新見錦・芹沢鴨などという者は東禅寺事件(水戸「尊攘激派」による英国公使襲撃事件)に連座していて斬首になるくらいのところを、今度の大赦で許された。既に江戸に行って伝通院の有志の者(=浪士組関係者)と謀っているところである>と告げたとされます。

下野隼次郎(当時49歳)は弘道館教授で、やはり坂下門外の変に関わっています。文久2年12月に原市之進らと一橋慶喜に随従して上京。翌文久3年1月には尊攘急進派の翠紅館会議にも参加(こちら)

山口徳之進(当時20歳)は藩士(200石)で、坂下門外の変の謀議に関った「激派」です。文久3年の藩主上洛に先発して上京し、尊攘急進派の翠紅館会議にも参加(こちら)。芹沢鴨を知っていたようで、『史談会速記録』によれば、水戸藩同志がいるからと京都残留を望む芹沢について、<病気なので残したらいいだろう>と草野剛三らに助言したようです。(こういう相談をされるということ自体、浪士組と水戸「激派」とのつながり、芹沢と水戸「激派」とのつながりを示していますよね?)。また新見錦の死に関わりがあるとも推測される吉成恒次郎とは従兄弟にあたります。(こちら)

関連:
「今日」◇文久2年4月13日−清河、一挙を前に本間精一郎・安積五郎・藤本鉄石らと薩摩藩大坂屋敷を退去。京都へ/ ◇4月23日−寺田屋事件 ◇5月28日-清河八郎、薩長藩士を激励するため、書を浦靱負に。 ◇5月29日−清河、桂小五郎の面会を求める ◇6月1日-清河八郎、退京途上伏見の薩摩屋敷に立寄り、冷笑されるが、藩士某から活動資金200両を贈られる。
「浪士組」「清河年表3−文久2年(寺田屋事件〜浪士組募集決定)」
「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件

清河に関心のある方は、HP内検索で清河八郎を検索してみてくださいね^^(現在132ファイルあります)

<参考>『清河八郎遺著』、『史談会速記録』、『明治維新人物辞典』等(2004.10.5)


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